「極北」マーセル・セロー著、村上春樹訳を読んで

危機に際し、どのように振舞うか。
この小説の最後近くに、このテキストは「絶滅に対抗するささやかな祈り」だと書かれている。
その世界では一つ一つの積み上げられた名前が失なわれていき、文明の灯りは消えようとしていた。
その中にあって主人公の女性ではあるが、男性として生きる「メイクピース」。
彼・彼女の名前は「メイクピース」、「和解」とでも訳せるだろうか?
彼女は戦争や飢餓で滅び行く世界の極北にいると思っていた。
しかし、その時、世界は極北へと中心をずらしている
極北の季節が極端な夏と冬という単純な世界でしかないように、
世界は都市や文明の複雑さを失い極端に単純化されている。
そこは命を守るための身も蓋もない世界だ。
それは例えば、楽譜には豊潤な世界が書かれてあるのに、その危機の時に残された、文明の豊かさを忘れた人間達には、その楽譜もただの沈黙にすぎないみたいな事だ。
その楽譜の使用方法さえ忘れた人間が生き残る衰弱した世界。
はたしてそのような時に、我々は何が出来て、何が残せるか?
その世界では、多くの人間が食べるために奴隷になっている。
危険な放射性物質や毒物がばら撒かれた所で働くために、選ばれた人間となる事を奴隷は望んでいる。
そして奴隷を使う誰かが、汚染された危険区域から、選ばれた人間が見つけ出した文明の残した豊潤を、横取りし独占するのだ。
主人公のメイクピースは、それをただ見て記述するために、沈黙の楽譜のような生活を捨てて、旅立つ。
もちろん旅立つ彼女は文明の残した垂直的な希望(空飛ぶ飛行機のような)を見すえているのだけど、水平で何もない極北を旅する内に、
彼女は、単純な世界の欲望や暴力に出会い、拘束され、
いつのまにか、楽譜の音楽を奏でる楽器になっている。
沈黙していた楽譜が彼女の受難から、豊かな音楽を奏で始めてる。
その受難がこの小説の美しさだ。
それが彼女が貧しく沈黙した極北の世界で、過去の豊潤な文明の世界から受け継いだ遺産だ。
極北の正義にレイプされ傷つけられた彼女が、自分の中の人間を取り返す「和解」に必要だった旅が、この小説には書かれている。
我々の3月11日以来の危機においても、この文明との「和解」が、今後やってくるために、必要な旅へと誘う「極北」という小説。
これを訳した村上春樹氏に、ほんとに感謝でし。

極北

極北

「タタール人の砂漠」ディーノ・ブッツァーティ作1940年

 町を出て、辺境にある国境の砦で軍人として働き始める若者=ドローゴ。
彼は一応、この小説の主人公ではあるが、規律と習慣が見る夢の主体に仮託されたような人物で、内面の砂漠に直面し続けるだけです。
 国境にある砦は、前面に異国の砂漠が拡がる。これと言って何もない山や崖の中で、脅威のない無用の国境線を守るのがドローゴの仕事だ。
何もない、この国境は守る意味さえないと他の将校は言う。
砦の軍人は官僚的な日常の規律の中で、常に国境の向こうを見張り、些細な異変を警戒する受動的な存在である。
受身にて来ないであろうと認識される敵を待つ仕事は、ただの苦痛でしかないと想像されます。
何もない場所で、何もないであろうけど、危機を待ち続ける。
(昔、ノストラダムスの大予言なんてのがあったけど、何もない日常に耐えられない人々は、その些細な事から目を避けるために遠くの危機で現在を無視した。終わりを待ち続ける、つまりは死の期日を明記して、生を死に託したみたいに)
 砦の兵士たちも現在をシカトし、自動人形のように規律に身を任せ、砂漠の向こうから攻めてきたという伝説のタタール人(=過去)を主人公に、空白の国境線の向こうの空白へ(=自分の内面の空白へ)、敵と戦う自分を投影する(=未来)
そこで能動的に自分がやっと活躍する。
自分が主人公たりうる、それは未来であると。ひたすら現在は、それを待つのみとなる(まるでお笑い芸人を目指す若者のように)
現在の日常は規律と習慣からたまに外れた、雑音を聞かすだけだ。
苦悩という雑音は映画館での迷惑なオヤジの鼾と同じように、自己の未来の上映を邪魔するものでしかない。
だからドローゴは未来に、より固執する。
些細な現在のノイズに敏感になる(神経的に)
そしていつのまにか、何もない、何も起こらない砦に固執する。
そこを出て行くこともできただろうに。
 そうして我々は、日常を生きないでレプリカントのように過去を未来に投影した荒野で、何もせず、待ち続けている。
自分が主人公になった未来をリピート上映する壊れた映写機のように。
そのことを教えてくれる小説が「タタール人の砂漠」なのです。
そんな小説として「モレルの発明」という小説も再び読んでみたくなりました。

タタール人の砂漠 (イタリア叢書)

タタール人の砂漠 (イタリア叢書)

「最後の光」レオン・フラピエ作(短篇集「女生徒」から)1905年

 机、テーブル、椅子、鏡と、まだ生活必需品、一つ一つが名前を持った子供のように存在した時代。それを揃えることが人間の生、足りえた時代。
フラピエの書く小説の人間描写も、少ない一つ一つが、時間の重なりを経た、疲れと、それ故の誰にも知られえない寂しさに開かれている。
 この小説の主人公は老いたる夫婦です。
若い頃に集めた家財道具が老いと共に取り上げられていく貧しさの悲劇にある。そしてお爺さんは呆け始める、、、

「彼の体には、少しも頭を働かす必要のない程の積もり積もった労働の習慣と、慣れ切った従順さとがあった。止めた時には、続けざまに四五度突いて、また動くようにしてやる」

そんなお爺さんは、借金で日に日に減っていく家財道具にも気づけない。
しかしお婆さんには、道具と共にある、お爺さんとの思い出が、まだある。
お爺さんの祝いの日に、心を込めて贈った鏡も、借金のかたに今もって行かれようとしていた。
この鏡はお爺さん自身のように思えます。
もうお婆さんの鏡として生きられないお爺さん。
お互いを、お互いの鏡として映し出してきた生活が終わってしまった象徴としての物語。
それでもお爺さんを映し続ける鏡=お婆さんの絶望があるのです。

「お婆さんはまだ希望を持ち続けようとした。彼女は思はず体を乗り出した。彼女の嘆きは極度に達した。このままですむものか、過去が皆、跡形もなくなくなるなんて、そんなことがあるものか!・・・・」

悲痛な叫びを上げるお婆さんは、お爺さんの名前を叫ぶ。

「−−−アルベール!鏡よ、あなたの大事な!」

お婆さんの言葉は、もはやお爺さんに伝わらない。
お爺さんを通して自分を確認できなくなるように、一つ一つの道具がお婆さんを置き去りにしていく。
「それを返せ!」と、お婆さんの人間性が取り剥がされていく。
お爺さんのようにノッペラボウになるしかないのか?
しかしお婆さんには思い出がある。
「食卓には苺があった・・・・どんなにお爺さんは喜んだろう!罪のない冗談を言ったつけ!栗色の髪を随分長く伸ばしていたので、鏡の前でいろいろ珍しい髪を作って楽しんだお爺さん・・・・・」

その鏡に関する思い出、それが最後の光=救いなのでしょうか。
しかし思い出=記憶は、物と共にあるのも事実なのです。

「女生徒 他八篇」フラピエ作 桜田 左訳

                    岩波文庫

「  」部分は本文からの引用です。

「プロシャ人」レオン・フラピエ(短篇集『女生徒』より)1905年

 1863年フランス、パリに生まれた作家レオン・フラピエ
彼の1905年に発表された短篇集に「プロシャ人」という10ページ程度の小説がある。
 主人公は後にプロシャ人と呼ばれることになるツリコ。生粋のフランス生まれである。
彼は気さくで人当たりがいい青年で、馴染みの場を多く持ち、地元を我が家とした。

「挨拶を交わし、知合ひになり、人からも認められるのが好きだった」

そんな誰からも好かれるフランス生まれの青年が、なぜプロシャ人(外国人)として非難され、住み慣れた町を追い出されることになるのか?

 プロシャ人。
それは最初、親しみをこめた綽名だった。
 ことのきっかけは、劇団に所属する貧窮していた友達が病気になり、主人公が、その代役をして稼いだ金を、その病気の友へ届けようとしたのだ。
その劇で代わりにやった役が、プロシャ人だった。
大柄で金髪の主人公はプロシャ人をやるのにもってこいだった。

「−−−今日は、プロシャ人。
 −−−皆さん、プロシャ人がおでましです。」

誰もが楽しげに主人公を綽名で呼び始めた。
そのうち綽名が慣れ親しんだ顔のようになる。
主人公の本当の名前は忘れ去られ、彼は「心中で喜びながら、少し当惑したように笑った」
彼の個人名は忘れられ、奪われた。
ロバに似ていればロバと呼ばれ。
太っていれば豚と呼ばれる。そのような類似が一人の人間を記号化することがある。
その人間の内容は忘れられて、記号の持つ属性が他人の見方を規定する。

「綽名が人の心を惹かなくなるときは、もう動きのとれないものとなっているのだ」

空っぽの記号は飽きられやすい。だから、その定型がイライラする。
すると、そのイライラの入れ物が、又も個人の本性を消した類似の記号となる。綽名がターゲットになる。
豚、はげ、ちょう○ん、き○がい!
 「けちなプロシャ人!」
 政治の季節がやってくると、主人公は攻撃の対象となってしまう。
論争で有利になった主人公に、何も言えなくなった論敵がパンチを入れるように「けちなプロシャ人」と叫ぶのだ。

「−−ああ!ほんとにいやな奴!お前さん、酢漬キャベツの臭いがするよ!」

主人公は酢漬キャベツの臭いなどしていない。ただプロシャ人という記号の属性として反射的に放たれた唾だ。俺らとお前は違う、お前は敵だ。
唾は、そう主人公を判決する。
しかし彼らは同じフランス人だ。それも記号なり。
だから誰もが唾を放たれ、敵だと言われうる恐怖と不安を背景に、敵に唾を放つ。
潜在的に敵としてありうる記号の中で、繋がる我々。だから誰もが、他人も自分さえ、知りえていないんだ、という親しさの中で、空っぽの記号属性以外には知りえない。

「すると、彼が知り抜いていると信じていた、そして、自分もその友達として知られていると思っていたこの人達を、ツリコは殆ど知りもしなければ、また彼等から知られてもいないことに、ふと気づいたのだった。要するに、それは単に習慣的に顔を見合すだけで、表面だけだった」

そう思った主人公は、もう外人は雇えないという理由で職を解雇される。
本当に実態として異邦人になっったのだ。変身だ。
フランス人の彼はフランス人の敵になり、フランス人に唾を吐く。

「本当に彼自身プロシャ人だと感じた」

そして彼は住みなれた町を出て行く。



「女生徒 他八篇」フラピエ作 桜田 左訳
                    岩波文庫
「  」部分は本文からの引用です。

「素晴らしき日曜日」黒澤明(1947年)を見て。

 我々の後ろから冷たい風が吹き抜けていく。
戦争が終わって2年後の街だ。
貧相な姿の我ら。この映画のカップルも、街も、そんな己の姿に苛立っている。
焼け野原になって、まともな生活をしているのは、闇の商売をしている人間だけだ(駅のゴミ箱も道路の標識も英語表記である、ある意味ワレワレの言葉も奪われてしまった状況だ。そうして60年以上たった今がある)
週に一度のデートは、そんな中で始まる。
 主人公のカップル達は決して美しくない。
成瀬巳喜男監督作品に欠かせない中北千枝子がヒロインです。熊のぬいぐるみのようにぽっちゃりしているんだ、この頃は(笑)
無骨でさえある。そんなカップル=2人は間借りをし、金がなく、あるものといえばお互いだけ。何もない2人。

どうしたら生きていく気力を得ることができるのか?
どうしたら幸せになれるのだろう?それを探って行く、この映画が作られたのは、敗戦という危機の中でした。
 饅頭が一個10円で、部屋代が600円、家が15万円。
主人公のカップルが、その日デートで持ち合わせた金が30円。
30円で楽しもうと、考えているうちに2人は不機嫌になっていく。
このカップルを救うのは金ではない。あってもなくても、それは人を幻滅させるから。
世間のものさしや有名性を自分達に当てはめた瞬間、われわれの多くは嫉妬し幻滅し、自己を不当に低く査定し始める。安いお得な私が増えて喜ぶのは買い手の世間や有名性だろう。
だから、カップルの2人は、世間の闇(真っ当な暮らし)とぶつかり、人に殴られ、雨に濡れ、やけになり、恋人さえ失いそうになって、はじめて本当の幸いへの道を歩き始める。
「何もない」という人間の本性に突き当たって初めて、当たり前の身近にあるものの尊とさについて考え、想像し始める。
それは有名性ではなく、無名にある。外からやってくる光ではなく、外から聞こえてくる音でもなく、
内から沸き起こる光で見えるものを「共有」し、内から沸き起こる音を介して繋がる「身近」という音楽である。
その音楽が聞こえる範疇にいるものしか本当に信じるに値するものはない。
「きこえるでしょう?」
だから、この映画は見るものに切実に語りかける。
「身近にいる人を励ましてください。そうすれば聞こえるでしょう、見えるでしょう」
その私の内から湧き上がる、傷ついた心や、深い悲しみの音楽が聞こえるのは、「あなた」だけなのですと。
だから冷たい風が我々の後ろから吹き抜けていっても、後ろを振り向いてはいけない。
後ろはいつのまにか過去という事に世間ではなっているけれど、後ろは、これから後、未来のことなんだ。
冷たい風さえ、我々を未来に導く励ましなのだ。
それを見るものに真正面から語りかけるこの映画は、だから、目をつぶった今でも上演されています。
内から湧き上がる、強い感情となり遠く響く音楽となり未来の我々を励ましています。

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「メトロポリス」フリッツ・ラング(1926年ドイツ)を見て。

 自分自身の似姿を作る人間。
キリスト、そして、この映画のアンドロイド(なぜ人間型ロボットなのか?)。
アンドロイドの名はマリア。
彼女(彼)が、我々の罪を被り、メトロポリスの危機が去るまでの映画。
 それは未来の危機(そして、過去の神話)
作品の中においてイメージとして、予見できるのは、過去の歴史に拠る。
それは、危機の徴候として現れる欠如(自分のサインに記憶のない請求書みたいな)
この映画においては労働者の「顔」の欠如として表れてきます。
労働者は整列し、(まるで「見てはいけない」と命令されたように)顔を伏せて歩く。
他者から顔が見えない人々。
そこに感情の表出はない。機械のように 「ある」。
なので大勢いても分断されている。バベルの塔の例えもあるさ。
彼等はメトロポリスの地下で電気を作るために働き暮らす。
地の底の住人である。
 一方の支配層は、まるで六本木ヒルズをイメージさせる、メトロポリスの地上ビル群に 「いる」。
地上は電気の灯りできらびやかに光る。彼等の顔は思考と感情が他者に向けられる。
つまり顔がクローズアップされる(すると彼等には心があるように見える)
 労働者達は大勢の黒いシルエットとして描かれる。
彼等の暗闇はアクシデントの炎でのみ照らされる。
機械は邪悪な神と結び、労働者を食らうように描かれた。そのカタストロフ=危機が、
人間の似姿であるロボットを作らせたのか?
機能だけならば、ロボットは人間の形をする必要はない。
人間の形をして、人間ではないものが、人間の身代わりになり、
人間的でない超越的な働きをして、危機の炎で自らを燃やし尽くし、
カタストロフと共に消えていく。
そういう物語ってありましたよね、思い出しません?
 

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「懺悔」テンギズ・アブラゼ監督(1984年)を見て。

 アブラゼ監督の故郷グルジアスターリンは生まれた。
この映画はソ連時代の映画であるが、ソ連以後に撮られたように錯覚される。それは映画の中で独裁者が非難されているからではなく、
宗教を無くした国を非難しているからでなく、
役者の顔が自由で活き活きと、どこでもないイメージを映画の中に作り出す批評性を帯びているからです。
強く誰かであることが、誰でもなくなるのが、映画の特性である。
虚構の人間となったまま、現実に存在しうる。
誰かである事を強く押し付ける、抑圧的な社会では、個々の属性=オプションが把握され、個々の人間性は背後に隠れていく。
だからソ連では役者の顔が、どこかの誰かに成り果て人間は地に落ちると思ったのです。
 ソ連の中で酷く虚構的な演技をし、その上でも自由を確保するには、どうしたら良いのか、それにこの映画は答えてくれている。
 それはスカシタ明るさにある怨念であったり、ひどく深い崇高なオカマの声だったりするだろう。それをこの映画を見て習得しようじゃないですか。
 懺悔とは自分の罪を告白した時の、世界のシラジラとした理屈や、アカラサマナ感情に、この映画のように嘘をつく怖さにある。
 あまりにも、この映画の独裁者の「うた」は怖い。
 この映画の懺悔は「本当」は怖い。

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