「タタール人の砂漠」ディーノ・ブッツァーティ作1940年

 町を出て、辺境にある国境の砦で軍人として働き始める若者=ドローゴ。
彼は一応、この小説の主人公ではあるが、規律と習慣が見る夢の主体に仮託されたような人物で、内面の砂漠に直面し続けるだけです。
 国境にある砦は、前面に異国の砂漠が拡がる。これと言って何もない山や崖の中で、脅威のない無用の国境線を守るのがドローゴの仕事だ。
何もない、この国境は守る意味さえないと他の将校は言う。
砦の軍人は官僚的な日常の規律の中で、常に国境の向こうを見張り、些細な異変を警戒する受動的な存在である。
受身にて来ないであろうと認識される敵を待つ仕事は、ただの苦痛でしかないと想像されます。
何もない場所で、何もないであろうけど、危機を待ち続ける。
(昔、ノストラダムスの大予言なんてのがあったけど、何もない日常に耐えられない人々は、その些細な事から目を避けるために遠くの危機で現在を無視した。終わりを待ち続ける、つまりは死の期日を明記して、生を死に託したみたいに)
 砦の兵士たちも現在をシカトし、自動人形のように規律に身を任せ、砂漠の向こうから攻めてきたという伝説のタタール人(=過去)を主人公に、空白の国境線の向こうの空白へ(=自分の内面の空白へ)、敵と戦う自分を投影する(=未来)
そこで能動的に自分がやっと活躍する。
自分が主人公たりうる、それは未来であると。ひたすら現在は、それを待つのみとなる(まるでお笑い芸人を目指す若者のように)
現在の日常は規律と習慣からたまに外れた、雑音を聞かすだけだ。
苦悩という雑音は映画館での迷惑なオヤジの鼾と同じように、自己の未来の上映を邪魔するものでしかない。
だからドローゴは未来に、より固執する。
些細な現在のノイズに敏感になる(神経的に)
そしていつのまにか、何もない、何も起こらない砦に固執する。
そこを出て行くこともできただろうに。
 そうして我々は、日常を生きないでレプリカントのように過去を未来に投影した荒野で、何もせず、待ち続けている。
自分が主人公になった未来をリピート上映する壊れた映写機のように。
そのことを教えてくれる小説が「タタール人の砂漠」なのです。
そんな小説として「モレルの発明」という小説も再び読んでみたくなりました。

タタール人の砂漠 (イタリア叢書)

タタール人の砂漠 (イタリア叢書)