「最後の光」レオン・フラピエ作(短篇集「女生徒」から)1905年

 机、テーブル、椅子、鏡と、まだ生活必需品、一つ一つが名前を持った子供のように存在した時代。それを揃えることが人間の生、足りえた時代。
フラピエの書く小説の人間描写も、少ない一つ一つが、時間の重なりを経た、疲れと、それ故の誰にも知られえない寂しさに開かれている。
 この小説の主人公は老いたる夫婦です。
若い頃に集めた家財道具が老いと共に取り上げられていく貧しさの悲劇にある。そしてお爺さんは呆け始める、、、

「彼の体には、少しも頭を働かす必要のない程の積もり積もった労働の習慣と、慣れ切った従順さとがあった。止めた時には、続けざまに四五度突いて、また動くようにしてやる」

そんなお爺さんは、借金で日に日に減っていく家財道具にも気づけない。
しかしお婆さんには、道具と共にある、お爺さんとの思い出が、まだある。
お爺さんの祝いの日に、心を込めて贈った鏡も、借金のかたに今もって行かれようとしていた。
この鏡はお爺さん自身のように思えます。
もうお婆さんの鏡として生きられないお爺さん。
お互いを、お互いの鏡として映し出してきた生活が終わってしまった象徴としての物語。
それでもお爺さんを映し続ける鏡=お婆さんの絶望があるのです。

「お婆さんはまだ希望を持ち続けようとした。彼女は思はず体を乗り出した。彼女の嘆きは極度に達した。このままですむものか、過去が皆、跡形もなくなくなるなんて、そんなことがあるものか!・・・・」

悲痛な叫びを上げるお婆さんは、お爺さんの名前を叫ぶ。

「−−−アルベール!鏡よ、あなたの大事な!」

お婆さんの言葉は、もはやお爺さんに伝わらない。
お爺さんを通して自分を確認できなくなるように、一つ一つの道具がお婆さんを置き去りにしていく。
「それを返せ!」と、お婆さんの人間性が取り剥がされていく。
お爺さんのようにノッペラボウになるしかないのか?
しかしお婆さんには思い出がある。
「食卓には苺があった・・・・どんなにお爺さんは喜んだろう!罪のない冗談を言ったつけ!栗色の髪を随分長く伸ばしていたので、鏡の前でいろいろ珍しい髪を作って楽しんだお爺さん・・・・・」

その鏡に関する思い出、それが最後の光=救いなのでしょうか。
しかし思い出=記憶は、物と共にあるのも事実なのです。

「女生徒 他八篇」フラピエ作 桜田 左訳

                    岩波文庫

「  」部分は本文からの引用です。