「素晴らしき日曜日」黒澤明(1947年)を見て。

 我々の後ろから冷たい風が吹き抜けていく。
戦争が終わって2年後の街だ。
貧相な姿の我ら。この映画のカップルも、街も、そんな己の姿に苛立っている。
焼け野原になって、まともな生活をしているのは、闇の商売をしている人間だけだ(駅のゴミ箱も道路の標識も英語表記である、ある意味ワレワレの言葉も奪われてしまった状況だ。そうして60年以上たった今がある)
週に一度のデートは、そんな中で始まる。
 主人公のカップル達は決して美しくない。
成瀬巳喜男監督作品に欠かせない中北千枝子がヒロインです。熊のぬいぐるみのようにぽっちゃりしているんだ、この頃は(笑)
無骨でさえある。そんなカップル=2人は間借りをし、金がなく、あるものといえばお互いだけ。何もない2人。

どうしたら生きていく気力を得ることができるのか?
どうしたら幸せになれるのだろう?それを探って行く、この映画が作られたのは、敗戦という危機の中でした。
 饅頭が一個10円で、部屋代が600円、家が15万円。
主人公のカップルが、その日デートで持ち合わせた金が30円。
30円で楽しもうと、考えているうちに2人は不機嫌になっていく。
このカップルを救うのは金ではない。あってもなくても、それは人を幻滅させるから。
世間のものさしや有名性を自分達に当てはめた瞬間、われわれの多くは嫉妬し幻滅し、自己を不当に低く査定し始める。安いお得な私が増えて喜ぶのは買い手の世間や有名性だろう。
だから、カップルの2人は、世間の闇(真っ当な暮らし)とぶつかり、人に殴られ、雨に濡れ、やけになり、恋人さえ失いそうになって、はじめて本当の幸いへの道を歩き始める。
「何もない」という人間の本性に突き当たって初めて、当たり前の身近にあるものの尊とさについて考え、想像し始める。
それは有名性ではなく、無名にある。外からやってくる光ではなく、外から聞こえてくる音でもなく、
内から沸き起こる光で見えるものを「共有」し、内から沸き起こる音を介して繋がる「身近」という音楽である。
その音楽が聞こえる範疇にいるものしか本当に信じるに値するものはない。
「きこえるでしょう?」
だから、この映画は見るものに切実に語りかける。
「身近にいる人を励ましてください。そうすれば聞こえるでしょう、見えるでしょう」
その私の内から湧き上がる、傷ついた心や、深い悲しみの音楽が聞こえるのは、「あなた」だけなのですと。
だから冷たい風が我々の後ろから吹き抜けていっても、後ろを振り向いてはいけない。
後ろはいつのまにか過去という事に世間ではなっているけれど、後ろは、これから後、未来のことなんだ。
冷たい風さえ、我々を未来に導く励ましなのだ。
それを見るものに真正面から語りかけるこの映画は、だから、目をつぶった今でも上演されています。
内から湧き上がる、強い感情となり遠く響く音楽となり未来の我々を励ましています。

素晴らしき日曜日<普及版> [DVD]

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