「魔法使いのおじいさん」(ゴーヴィンダン・アラヴィンダン監督)1979年/インド

<少年は犬になる>
子供達と魔法使いのおじいさんが、草原で踊り歌うところを、遠くから撮っているのが印象的な映画でした。見る人が、それぞれの解釈を挟める余地のある映像の作り方がなされています。この映画を見た個々の人が、より深く自分を知るためのきっかけになるような映像作りがされているのでした。個々の登場人物の心理を伝えるのではなく、個人から旅立ち、他者になって、その苦しみを体得する変身のお話なのです。他者を一度通して、自分自身を解放するお話でした。そこで宮沢賢治のお話を思い出すかたも多いのではないかと思います。その宮沢的な語りに、小川紳介的な人間の言葉にならない、映像に映ってしまう人間の悲しさや、おかしさが寄り添った映画なのです。(ちなみに小川紳介とは日本のドキュメンタリー映画作家で、システムに抵抗する人間や、社会から外れて最低の暮らしをする人間、または山形の農村に自ら住み、農業の技術、個々の人々、村の歴史を通して、土地の記憶を重層的に描き出した映画監督です)

<少年は鳥になる>
主人公の住むインドの広い自然の中、人間は動物の鳴き声に囲まれて生きている。それを忘れさせるのが、人間の発明した言葉かもしれません。
少年は犬になり、静かな夜に泣く。忘れていた自分の中の故郷を思って。
自分の中の故郷とは、世界のあるがままの姿です。それを見せてくれるのが良い映画です。あるがままとは、他者=機械=死んだ人の見た世界の姿です。それを子供達に見せてくれるのが、広い自然の中を渡り歩く「魔法使いのおじいさん」なのでした。おじいさんは魔法で、置き換えます。
言葉のように「子供」を「動物」に置き換えます。映像も「子供」から「動物」にカットが変わります。その「子供」が「動物」に置き換えられても、そこに変わらないものとは何でしょうか?
それを見る人に想像させるのが、この映画の良いところでした。
その「変わらない」何かを「分かった」主人公の子供が、「置き換えずに」、「魔法を使わずに」、鳥に「なる」のです。
そこで、この映画は人間が、人間を不自由にする鳥かごから、解放される姿を大きな空に描いて見せてくれるのです。それを、ぜひこの映画で多くの人に見て貰えたら、うれしいです!