「たかが服、されど服 ヨウジヤマモト論」鷲田清一・著(2010年)を読んで。

「たかが映画、だけど映画」と、映画監督の神代辰巳は言った。
”たかが”、、、、、”だけど”と神代は思いつめていた。
服飾デザイナーの山本耀司は”たかが”、”されど”と服を作ってきた。
”だけど”と”されど”。同じようで、この2人の男、いったい、どう違うのか?それを考えつつ、僕はこの本を読み始めた。


 北野武や著者・鷲田清一が愛する、服飾デザイナーについて書かれた断章による本です。人に取り付く島を与えるほどには、優しい微笑をたたえた文章で書かれていますが、油断はできません。

 完璧なコーディネートで身を硬くしてイメージの奴隷になったり、着崩し過ぎては身体のコントロールを失いがちな人々に、服から服によって自由になるためのヨウジヤマモトの姿勢を、一冊の本へ著者が織り込んでくれています。
 この本で印象的なのは、ヨウジのコレクション・モデルの後ろ姿です。
見送る視線から撮られた写真。消えいくモード=服の数々を、我々は、すぐ視線から外し、忘れ、新しい未来のモード=服を選ぶ。常にやってくるモデルを、前から見るため、我々は待っている、常に。
 しかし著者の鷲田さんによるとヨウジは後姿から服を構想すると書いています。消えていく姿から、構想が始まるモード=服。
去り際の美しさ。終から、死から、それらを弔うように服を作る男。過去の「可能が可能のままであったところ」を理想とし、見つつ、モードに連れ去られるヨウジ。
 著者は自由の服を作る人=ヨウジのイメージではなく、存在へと言葉を重ねていく。
それは、未来からやってくる「イメージ」を着た私ではなく、過去からやってくる「存在」を身にまとった私。
表面で軽やかなモードを、脱臼させる戦略を取るヨウジ。そのヨウジのモードは、服の表面に「ピーン」と張力保っておく。それを著者は「意地」という。何にも、誰にもならないための防御線。ツパッタ服。
終わらない装い=モードに、絶対的な終わりを装う、意地の軽やかさ、おかしみ。
ヨウジの服を着る人が、隔たりの埋まらない存在として、芯からの強さを伝えるように、そんな個のために、この本を著者は書いたのかもしれない。
その困難な個を書いて、とても読む人を勇気付ける本なのでした。
それを象徴するかのような、本のラストに掲げられた、ヨウジの服を着たモデルの凛とした後姿。そこに総てが語られていたりするので、是非見てみて頂きたいです!

 そうそう、「たかが服、されど服」そして「たかが映画、だけど映画」と言った2人の男の事を書き忘れて、この文を終わろうとしていました。
”されど”と”だけど”。
”されど”は”だけど”より軽い。
”だけど”は重く、せつない。映画という重い身体を引きずって、だけど軽く移動しつづける神代らしい言葉。
”されど”は存在の中枢に降りていく、モードという抽象を呼び寄せる衣装の襞のように、計算された、軽やかなヨウジの言葉なのだな。
しかし、
”たかが”から始める2人の男が作るものは、
自分を自分の持つ袋に入れて、持ち歩くほどには、貧しく、小さく、私よりも、もっと小さい私で、私が消えていくほどに、可愛く、如何わしいと、この本を読んで思いましたけど。

たかが服、されど服 ――ヨウジヤマモト論

たかが服、されど服 ――ヨウジヤマモト論