「母を恋はずや」小津安二郎(1934年)を見て。

 形見の懐中時計を耳元に持っていき、亡くなった主の写真を見ている母。
父のいない家庭。それが落ちて行くお話。
異母兄弟。弟が兄を殴り、泣き崩れるほどには大げさであるけれど、仲良き事幸せなりと映画は終わるらしい。
「らしい」というのも、
最初と最後のロールが失われているからで。
映画は音もなく(サイレントだし)突然映像が、事切れる。
まるで人生のように。もがいていた。血の繋がりを確認するために。
それで芝居がかってしまう。
無いものを確認しようとして、自信がないから、身振りが大きくなる。
何かが過剰にあるのは対象が絞れていないからだ。
その過剰に、縺れて行く感情の意図=糸を解きほぐすのが、
飯田蝶子扮する、掃除のオバちゃんだったのです。
飯田蝶子が掃除する姿を通して母を想う。
彼女が主人公の異母兄弟・兄によって欲望の対象となった。
場末のチャブ屋=あいまい宿の掃除人である飯田蝶子
その働く、情けない姿を見る事を通して異母兄弟・兄の感情は整理される。
そこに母への一本の通路ができる。
すっきりした以後のスマートな小津映画の感情へと辿り付いたらしい。
「らしい」というのも、最後のロールが欠け、それを確証するシーンを見られなかったからです。
 形見の時計の音を聞き、亡くなった亭主の写真を見る母のように、いつか息子も、無くなりそうな母を、別の女に見て、親不孝なチャブ屋から立ち去るらしい。
「らしい」という感じの映画。その貧しさが聖なるものを予感させる映画。

母千恵子=吉川満子  長男貞夫=大日方伝  次男幸作=三井秀男
チャブ屋の掃除婦=飯田蝶子

母を恋はずや [VHS]

母を恋はずや [VHS]