「快の打ち出の小槌 〜日本人の精神分析講義〜」佐々木孝次+伊丹十三・著(1980年)を読んで。

2人で話しているぶんには話し易いけど、3人以上になると、突如、話がし難く感じられる。何でだろうか?そんな自分自身の疑問を思い出せてくれる良い本が、これでした。
 まず本書の目次から。
第一章 血縁幻想
第二章 母親の出現
第三章 言葉の発見
第四章 鏡像段階
第五章 エディプス
第六章 日本人の精神分析

 伊丹は第一章から「大人になるといことは、人の生涯かけての仕事じゃないか」と始めている。
もちろんこれは日本人のお話で。
エディプス以前にいる、母子関係しかない我々のお話である。
母子=2人の世界で、じか取引しか出来ない日本人の幼児性。
察し合う私たち。
そこには第三者がいない。それは父であったり神であったり、客観と呼ばれたりするものです。
それを映画監督やエッセイストとして知られる伊丹十三と、
ラカンの翻訳などで知られる精神分析学者の佐々木孝次が解き明かしていく対談集が、この本。
 日本で意味の詰まった言葉を言うのは難しいのか?
我々は、ただ言い換えていく、連想ゲームのように、それを換喩という。
様々な西洋の思想や音楽のスタイルも、歴史を欠いて並存させてしまう。
意味が連鎖する歴史という時間がない日本。
だから常に最新のものに価値を置くしかない。目新しい快だけ。
街に溢れる看板のような思想やスタイル。
まるで「意味するもの」=言葉の増殖しかない日本。
「意味されるもの」=内容が日本にはないのか?
「?」
それを本書は分かりやすい図式を使って説明してくれてます。
っていうか、伊丹さんが分かりやすく話を広げ、まとめ、ナヴィしてくれています。知性というもののモデルを伊丹さんに感じますから。

 日本には強いフィクションは生まれないのか?
どうやら大人になるには強いフィクションが必要らしいですぜ。
神とかパブリックとか、所有権とか、そこへ導く父親の発明が!
もちろん本書で「お母さん」でしかないと言われる日本の父親は、「やらせTVドキュメンタリー」程度のノン・フィクションでしかないかも。せいぜい情で人と繋がる演歌的空想共同体。イメクラ的空想に遊ぶ私たち。
僕は、そういう世界で3人以上での会話に困難を感じているのだなあ。
三者として想像される地点=大きなフィクションを通して話を出来ないのです。擬似母子関係のように、直接的な他者に自分を融合させる赤ちゃんプレイが僕かも。
かなり自分がやばい状態に居ると本書を読んで怖くなりました。
伊丹さんは、中年になってエディプスを脱却できたと本書で言っている。
日本で大人に近づく事が逆に生き難さに繋がる可能性は強いのか?
彼の自殺は、謎に包まれている。
エス(簡単に言えば、無意識)が露わな国で、何を言っても身も蓋もないことになりかねないけど。あらまあ、いやねえ。いとおかし。なんちゃって。
それを象徴するような政党が今や解体し始めている日本。
この本が書かれてから30年たって、少しは日本人も大人への階段を上り始めたのかしら。皆さん、どう思われますか?
 ちなみにタイトルの「快の打ち出の小槌」は、幼児=私の不快を取り除いてくれる、呼べば快楽、打ち出の小槌みたいな「お母さん!」てな感じ(マルコメ味噌みたいだけど、笑)